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大阪読奨OB会 はばたき

名誉会長 山本政信(5期生)


42年振りの再会

昨年1030日、湯村温泉「朝野家」で、母校兵庫県立「村岡高校」第7期生(昭和43年度卒)の「還暦同窓会」が開催された。

幹事は、田舎に在住の元郵便局員・元教師・元農協職員の面々のお世話で、実に42年振りの同窓会であった。

 母校は、兵庫県北部に位置し周囲を山々に囲まれた旧村岡城址の高台にあった。(現在は、商店街の横に移転)鉢伏山(鉢北スキー場)に代表されるように冬は雪が深く、忍耐と耐乏の生活を通じて我々を鍛え上げてくれた故郷である。

 当時は生徒が多く、我々の学年は3クラスで149名の同級生がいた。その内の56名と恩師1名(男性:古典・現代国語の先生)総勢57名が集った一泊の同窓会であった。出席者の約7割が京阪神在住者であり、“既に6名の同窓生が亡くなった”と聞き、時の流れを実感すると共に、心の中で冥福を祈った次第である。

 受付を済ませ、幹事の配慮で、同じクラスの者同士の部屋割りであったため、部屋へ入ると4名の先客がおり、不思議と名前はすぐ思い出すことができたが、宴会場で全員が集合したら、顔は分かるが名前が出てこない。

特に女性の方々は顔すらも思い出せない状態で、名前も出てこない人達が多かった。(見事な容姿変貌振りというべきであろうか?)

 学生時代の仕切り役の司会進行で会はスムーズに進行していく。先ず42年振りの校歌斉唱で始まったが、中々歌詞が出て来ず、歌っているうちに記憶が甦り最後まで大きな声で歌うことが出来た。そして何となく瞼に熱いものを感じた。

次に恩師の挨拶があったが、現在73歳で、家業(神社の神主)を継ぎ、心身ともに健康で、教師になって2回目の我々の学年担任であったとのことで記憶も鮮明。当時の悪ガキ連中は特に良く憶えておられたようである。

 宴たけなわとなり、出席者全員の近況報告((1分間スピーチ)があり、定年退職で悠々自適の者、現役で頑張っている者、孫に囲まれハッピーな生活をしている者等、幸せいっぱいの話を聞き、夫々が安堵した様子であった。

 杯が進むほどに酔いも深まり、まるで42年前にタイムスリップした様に全員が盛り上がり、あっという間に3時間が過ぎ、中締めとなった。当然、二次会と相成り、温泉街へ繰り出したが、それらしき店はどこにもなく、已む無く旅館のカラオケルームへ集合し、懐かしのメロディーで大いに盛り上がった。

やがてその部屋も締め出しとなり、今度は宿泊の大部屋へ集合(男女約20)。各部屋より冷蔵庫の飲み物を持ち寄り、遅くまで話の花が咲いた。

久し振りに学生時代に戻り、世の中の嫌な事も、家族の事も忘れ、憂さ晴しが出来た一晩であった。全員還暦を過ぎた年齢ではあるが、みんな元気ハツラツで、8090歳代の先輩から見たら“洟垂れ小僧であろう。

都会へ出た者は定年を迎え、第二の人生とでも言うか、顧問・嘱託として会社に残る人、再就職をする人、パート・アルバイトをする人等、働いている人も多く、年金の一部を貰っても生活が厳しいのが現状のようである。

田舎暮らしをしている者は、生活には多少余裕があるものの、年老いた親の介護をするなど、それなりの苦労をしている。

これから、景気が急に良くなり、年金の額が大きく増えることもないことを思えば、これ以上の生活のゆとりや贅沢は望むべくもない。せいぜい発想を換えて、毎日を楽しく、元気に過ごすことに価値を見い出し、生きて行くべきなのであろうか? と、考えさせられた一時であった。

 

翌朝は、雨がしとしとと降る山陰地方特有の雨空であったが、全員早朝よりハツラツと朝食を済ませ、5年後の同窓会での再会を約束し、思い出話に花が咲き、新しい思い出作りの場となった「朝野家」を後にした。