「仲間を救え!」
 
はばたきOBが「阪神淡路大震災」の救援に動く

                                  世話役 日下英治

 昨年(平成23年3月11日)に発生した東日本大震災による甚大な被害は、自然の猛威と人間の脆弱さを世界中に知らしめると共に、“絆”や地域社会における“互助”の大切さを思い知らされた。そして、今後、日本の総力を挙げて復旧・復興に向けた行動を取り続ければならない最重要課題の一つである。
 平成7年1月17日午前5時46分に発生した「阪神淡路大震災」は、今年で17年目を迎える。関東大震災以降発生した最大の地震であり、死者6,434人、重軽傷者43,792人、全半壊家屋274,181棟に上る被害を被った。(YC関係死傷者41人・全半壊店43店)
 地震の発生は、私の母が1月7日に亡くなり、郷里長崎県諫早で葬儀を済ませ、16日に生駒の自宅に帰った翌日の早朝であった。地底から突き上げられるような衝撃で目を覚し、咄嗟に妻と共に子供の寝ている部屋に飛び込んだ。二段ベッドの上段に寝ていた長男(当時10歳)を下に引きずり降ろし、頭から毛布を被せ地震の収まりを待った。数分間の揺れだったと思うが、随分長く感じられた。
 生駒は震度4で、棚の上の置物が落ちる程度であったが、テレビの7時のニュースではJRや地下鉄等は不通。詳細な被害状況は何も分からなかったが、近鉄生駒線は運行しており、“難波までは行ける”と考え取り敢えず難波に向かった。
 しかし、地下鉄は止ったままで、ホーム手前の階段まで人が溢れ返っていた。“よし!会社のある中津(5駅)まで歩こう”と御堂筋を歩き始めたところ、本町辺りで客を降ろしたタクシーに運良く出会い、急遽乗車して世界長ビルに向かった。運転手に被害状況を聞くと、「未だ詳しいことは分からないが、神戸辺りの被害が大きいようだ」とのこと。
 9時過ぎに中津の会社に着くと、未だ誰も出社できない状況であった。程なく出社した情報システム部の若手社員と共に9階、8階、7階、6階と上から順番に被害状況を確認。コンピューターの落下や机、書棚の書籍等の散乱状況を把握したが、世界長ビルの上層部の北面の窓ガラスが割れ道路に落下していた。
 幸いにも早朝で人が歩いていない時間帯であり、もし時間がずれていたら厚さ6.7ミリのガラス破片が豪雨のように降り注ぎ、多くの被害者が出たのではないかと思うと今でもゾッとする。10時頃6階の社長室のテレビを見ると、神戸市長田地区で火災が発生、被害状況が想像以上に甚大であることが徐々に判明し始めた。
 奨学会事務局では、田中孝生氏(当時事務局長・前常務取締役販売局長)の指揮の下、連絡が取れにくい中、あの手この手を使って93名の奨学生の安否確認に奔走し、一人の怪我人もいなかったとのことで、まさに奇跡中の奇跡としか言いようがないであろう。
 17日夜は“YHBの新年会”を予定していたが、“とても新年会どころではない!”予約をキャンセルし、新年会は中止となった。

 会社(マルホ梶jの社員も神戸周辺に数十名が居住しており、一人の先輩が自宅倒壊で家屋の下敷きになり、骨盤骨折の重傷を負われた。更に、弟さんが行方不明であったが、震災後4日目に、倒壊した家屋の中から奇跡的に救助されたとの情報を得、翌日、当時西宮北口に住んでいた木口特次氏(現はばたき会長)の自転車で六甲病院に見舞いに行った。
 その翌日、当時YHB会計を担当していた中村憲三氏(現シニア倶楽部副代表世話役・中村憲三税理士事務所所長)から“奨学生の救援を!”との電話があった。私が当時YHB会長をしていたこともあり、「社長!私の後輩の現役奨学生が阪神地区に沢山います。救助の為の打ち合わせをしたいので会議室を使わせてください」。と話すと、社長より「よし分かった、自由に使え!」との快諾を得、有志(勇士)が集まり、マルホの会議室で被災現場の現役奨学生の救援活動について協議した。
 「OBとして出来る限りのことをやろう!」と決議し、当面の寒さを凌ぐ為の「電気毛布」や「電気コンロ」、インスタントラーメン等を買い集め、1月28日、軽トラックに「緊急車両」のマークを付け読売新聞大阪本社前を出発した。メンバーは阪神西部へ故奥田 均氏(元はばたき会会長)、故竹内明彦氏(YHB会員)、有瀬和憲氏(元奨学会事務局次長)、馬場祥夫氏(元奨学会事務局)。神戸西部へ中村憲三氏(YHB会計)、伊藤博志氏(元奨学会事務局)。神戸東部へ林 成志氏(YHB会員)、奥田浩介氏(奨学会事務局)、日下英治の9名。震災後まだ1週間ということもあり、道路は渋滞に次ぐ渋滞。車を置いて瓦礫の中を徒歩で配達したところもあったが、ほぼ一日がかりでの物資配送であった。また、YHBメンバーで高槻農民組合の野沢純一氏の肝入りで、米10kgを奨学生が在籍する販売店に夕刊便に乗せ届けて貰った。
 YHBとしては総額30万円程の救援活動となったが、数日前には無かった花束が瓦礫の上に添えられているのを見ると、あの瓦礫の下から遺体が発見されたのだと思い、凍て付く中に添えられた花束の数を見て、命の尊さと無念さを実感した。
 震災の救援活動の際に「ゴホン、ゴホン」と咳をしていた竹内明彦氏(通称タケチャンマン)が、奥様と共に必死で作ったにぎりめしを持って、現地に向かったことは今でも鮮明に覚えている。そのタケチャンマンが3月のオウムサリン事件の頃にも咳をしているので、“チャンとした病院で診てもらった方が良いよ”と言うと、即、阪大病院で受診した。
 受診の結果、胸郭周辺に癌が見つかり入院し、その年の秋に帰らぬ人となってしまった。阪神淡路大震災を思い起こす時、あの人懐っこいタケチャンマンの顔と共に救援活動に動いた同志の姿が甦って来る。
 あのように、突然に想定外の事態が発生した時に、瞬時に適切な判断と行動を起させたものは何か?と考えると、“年齢を問わず、同じ様な立場で、共通の目標に向かって努力している(来た)仲間がいる”という“絆”や“心の仲間”意識が、何時までも心の底に息づいているのではないかと思う。

 東日本大震災が発生してからもう10ヶ月が経ちます。福島第一原発の事故は人災ですが、地震、津波は天災です。地球は生きもので、活動していることを実感し、改めて自然を畏敬・親愛して生活することの大切さを噛み締めています。